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運は誰にでも平等に訪れるのだから人によって差は無いというのは嘘

2014.05.22 (Thu)
 私はひさびさに買いたい株を物色するため、他人のブログを巡回していたのですが、その時に見つけた某K道場のK先生が次の様な事をおっしゃっていました。
「相場などというもの、運不運に大きく左右されるものである。しかしそれでも、ある程度以上の期間を取れば結果的には、結局誰にも公平に運不運は訪れる、だから運不運をあれこれ言うことはない。これは、私がもう何十年も前に到達した境地である。だから私は「大数の法則」ということをよく言うのであり、自身の成績についても4勝1敗を標榜しているわけである。」
 ちなみにK先生は以前も「努力して利益を上げているのだから運ではない」と言うようなことをおっしゃっていた気がする。最近みたどこかのニュースでも「金持ちは自分たちが金持ちなのは運だとは思わない人が大半」という調査結果が出ていた。
 私は以前から運についてブログに書きたいなぁとは思っていたので、ちょうどいい機会だから今回書きたいと思います。
 「じーんせーいーらーくあーりゃーくーもあーるーさー」という歌があります。確かにその通りです。でも平等には訪れません。運が平等だと思う人の根拠として大数の法則が使われます。
大数の法則
 大数の法則は間違っています。・・・・とは言いません。正しいです。でもだからと言って運は平等ではありません。

 「逆正弦定理」

 この言葉でググって引っかかるいくつかのサイトを以下に紹介します。

負けは負け続ける~逆正弦定理

このサイトでは次の様な言葉で始まります。
「ギャンブルでは、負ける人は負け続けます。勝つ人は勝ち続けます。確率論からの定理です。」
恐ろしいですねェ?怖いですねェ?運は平等だと思っている人にとっては「ハァ?ナニイッチャッテンノ?」ってなところでしょう。
 サイトではこう結論づけています。「確率論が言っている、期待値が0という意味は、 十分長い時間(無限に)ゲームを行えば、 「その差」/「長い時間」が0になるということです。 勝ち負けが必ずトントンになるということではありません。 勝ち負けの差はゲームをやればやるほど、とてつもなく大きくなります。 しかし、「その差も無限に比べれば0になる」、ということです。」
 
別のブログを見てみましょう
第22回 ボーダー理論のビジュアル化 ~収支は収束しない?~

結論から言えば「平均収支は収束します。トータル収支(累積収支)は収束しません」
余談ですが「累積収支が発散するなら「トータルで勝つ」にはどうしたら良いでしょうか?」に対して「期待値を積み上げる事」と書いています。この期待値の部分が実力と言う事になるのでしょう。つまりこれを読んでいる方に理解してもらいたいことは同じ実力を持つ人間がいたとしても試行回数を繰り返すほどに運によって結果に差が開いていくと言う事です。

第23回 逆正弦定理 ~ボーダー理論は否定される?

抜粋
「ある程度の偏りが生じるとなかなか挽回できません。偏ったからといって逆向きの力が働くわけではないからです。逆正弦定理からわかるのはそういうことです。」は独立試行についての事ですね。

ちょっと面白いので紹介
なりきりランダム論者

ジャンケンに強い人
抜粋
「自分の考えることが55パーセントまで正しい人は、ウォール街に出かけて、1日に100万ドルもうけることができる。55パーセントに正しい自信すらない人間に、他人の間違いを指摘する資格が、果たしてあるだろうか。これは世界的なロングセラーといわれるデール・カーネギーの『人を動かす』(創元社)に出ている言葉です。文脈上は後半の部分に力点がありますが、初めて読んだとき、何より心を動かされたのは、55%という数字です。半分よりもちょっとだけ多いというこの数字です。確かに、ほんのちょっとでも正しいことのほうが多ければ、株で儲けることができるに違いない、統計とはそういうものだ、深く感銘を受けました。」
 完璧でなければ儲からないと思っている人も多いと思いますが、実はほんのちょっと有利なだけで良いんですよね。でもそのほんのちょっとが難しいと思ったほうがいいでしょう。勝率が5分に近いとバカにしたりする人がいますが間違いです。そもそもそんなものですし、そしてほんのわずかな差を作るのにも相当な苦労が必要なものだと思います。完璧などと言う事・人はありません。逆にこれを理解していない人はリスクを全力で回避したがったり、ちょっと失敗しただけで極端に落ち込んだりしているんだと思います。要するに努力したって無駄かもしれないから努力しないと言うような人間が生まれるんだと思います。

ランダムウォークとその周辺①
抜粋
「コイントスは表と裏の出る確率は共に1/2なので、期待値としては勝ち負けがイーブンになると君は思っているのだろう。しかしそれは、「ゲームを一回で終わらせた場合の平均値」という事で、多くの人が誤解している部分だ。確率論で言うところの「期待値が0」という意味は、無限回数のゲームを行えば「勝ち負けの差/ゲーム数」が0になるということに過ぎないわけだよ。勝ち負けの差もゲーム回数が増加するほど大きくはなるが、ゲーム回数に比べればその増加スピードは非常に小さいだけだ。」
 これは一番最初に紹介したサイト「負けは負け続ける~逆正弦定理」と同じ説明ですね。ここで私が直感的にも理解しやすいように説明しますと、

 一回負けるとマイナス1万円勝つとプラス一万円になるとします。一回勝負して負けた場合当然-1万円で勝った確率は0です。逆に勝った場合は+1万円で確率は1です。ここで試行回数を増やし100回勝負をしたとしましょう。ここで49回勝って51回負けた場合の勝った確率は49/100です。ほぼ1/2に近いですね。でも金額を見てください。-2万円ですよね。最初の試行回数1回で確率0の額は-1万円で済んだのに確率がほぼ1/2なのに負けた金額は倍になっちゃいました・・・。ちなみに直感的に考えてみても試行回数を増やしたからと言ってぴったり1/2になる事って少ないと思いませんか?なったとしてもほんのひと時だけでしょう。1/2に近づきはするんだろうけど、微妙に+側にずれたりマイナス側にずれたりするだろうしずれてる回のほうが多いと思いませんか?しかしその差は1/2からは微妙な差しかないのだから問題ないだろうと思ってしまいうのですが、微妙な差でもそこに大きな試行回数を掛け合わせるのだから累積の差が縮まったりはしないのでしょう。どうですか?理解できましたでしょうか?でもこれではプラスになったりマイナスになったりブレると言うのだから運の良い人悪い人は固定化されるの説明ができていないようですね。差が広がってしまうのは独立試行であるからと言うのがポイントですね。悪い事が起きたから次は良い事が起きると言う話には根拠はありません。お互いの試行には何の関係もないので何の影響も与えません。先のボーダー理論について書いていたブログのグラフを見ればわかりますが、時間(試行回数)が増えれば増えるほど運の良い人悪い人でさらに差が開いていく人と言うのは純粋にただの確率の問題(運)として存在するのです。ただし極端な差が開く人は少ないのですがそれでも実は繰り返せば繰り返すほど差が広がるという点に注目してください。株等で短期売買して極端に儲ける人がいますが、どうしてそうなるのかの理由の一つとしてこれで説明できないでしょうか?ある株Aについてずっと持っているだけの人と、売買を繰り返す人がいる。株価はその間上下に動きながら長期的に上昇しているとしましょう。うまく短期の売買に乗れたら当然長期で持っている人より利益は伸びますよね。だからこそ短期売買のほうが良いと思っている人いると思いますが、試行回数が多いほど運による差が広がっていくという数学上のこの理論に注意してください。もちろん試行回数が多いのにプラスに大きく傾いているのであれば実力(ボーダーが上に傾いている)がある可能性があります。その一方で運による影響も大きくなっている点に注意してください。ウォーレンバフェット氏は株を買うのは数回だけにしろみたいなことを言ってましたね。これはもしかしたら上記のようなことを理解したうえで、運に左右されないようにとのことかもしれません。短期売買を推薦する方々にとっては長期で保有することのほうが危険だ(運次第だ)と思っている方が多いとは思いますが。短期売買をしている人でランキングだのでパフォーマンスがすごく高いのを出している方いますが、運の影響が大きくなっています。よって、別にこれらの理由からだけではありませんが単にパフォーマンスが良いからと言ってその人の言っていることを何も考えないで丸のみするのはやめたほうが良いです。自分もバフェットさんなどを参考にして信頼していますが、あくまで彼らが言っている内容について自分で考えた上で、理解・納得できたからです。もちろん自分の判断・考えが過ちだった可能性は残ります。でもだからと言って考えるのをやめるという選択肢はないでしょう。(もしかしてあなたカーズさんですか?)

 何度も取引しているのに勝ち続けて大金を儲けているのだから運ではないなどと言う人もいますが、この逆正弦定理を知っていれば必ずしもそうは言えないと言う事を理解できるのではないでしょうか?

 株式等の金融の世界ってほとんどの人が思っている以上に運による影響が大きい世界だと思います。まぁ皆さんがどの程度思っているのかなんてことを私が正確に知る術はありませんが。どうもネットを巡回しているとよくわかっていないんじゃないかと思われる人がちらほらいます。

 みんなの株式と言うサイトでは個人投資家の方が組み上げたポートフォリオが公開されていてランキング化されていますが、ガンホーが急騰しているときに、ガンホーを組み入れているポートフォリオが軒並みランキング上位にいました。ほとんどが数年前に組まれたポートフォリオでそれ以降何もいじられていないもの(放置されていた)でした。その時に運の力はおそろしいなぁと実感したわけですが、しかしガンホーを組み入れられた際に人それぞれ考えがあったわけで誰がまぐれで誰が実力者かなどと言うのが分かるのでしょうか?

 ナニがウンでナニが実力かが分かれば運に踊らされて喜んでるマヌケにならずにしっかりと実力を身に着けられてほぼ確実な利益を獲得できる生活がおくれそうだと思いませんか?かなり重要な事だと思いますよ。まぁ運が良いと言うのは良い事なんで素直に喜んじゃえばいいんですけどね。株式投資を運任せのギャンブルにしたくなければナニを身に着けなければいけないのか?・・・・・・。ただのギャンブルになってないか自分のやっていることを見直してみてください。まぁ・・・全員が全員何がギャンブルで何がそれ以外のナニかが判断できるとは思いませんけどね・・・・。
 
 交通ルールを守っていたのに事故にあう人は運が悪いと言われるが、交通ルールを守っていない人が事故にあえばそうは言われない。体にダメージを与えて超回復を狙うのが筋トレだが、まれに超回復のしない病気の人もいるだろう。彼は努力はしたが彼の責任ではない病気だったがために筋力が上がらなかった。これは運が悪かったと言われるだろう。いやだからなんだと言われても困るのだが、運が悪いとか良いとかドゥいう言う事なのだろうかな?と言う事ですよ。

逆正弦法則の一般化に向けての一考察

リードの法則

ランダムウォーク

ランダム・ウォーク理論



幾何分布#無記憶性

ベルヌーイ過程

コイントスから広がる確率論の世界

 ちなみにバフェットさんはこの辺の話はご存じでしょうね。会う人によく確率がらみの問題を出すそうです。ビルゲイツ氏にも問題をだしたがすぐに正確な答えが返ってきたという話をどこかの本で読みました。










 バフェットさんが投資とはなにかについて語った話の一つにダイエットに成功するかしないかを掛ける話があったような気がする。もう一つ、大学での講演で卒業後、誰に賭けるかという話とか。当然みなさん品行方正で努力家真面目な人に賭けますよね?というお話です。

 株などをギャンブルとみなす人に共通しているのは値段の動きに注目している人だと思うんです。そして僕の中では株価ばかりに注目して会社を見ない人はダメだと。昔も言いましたけど究極的には株もギャンブルです。ある意味未来がどうなるかに賭けるのだからです。でも人生そのもが未来がどうなるかにかかっているのでギャンブルです。皆生きている時点で死ぬという最大最悪のリスクを背負っています。でも一つだけ明日死なずに済む方法があります。・・・・・・・・・今すぐ死ぬことです。

 ここまで話を散発的に進めてきました。ゆるーくなんとなーくまとめます。ある会社がうまくいくかどうかは運だけで決まるのでしょうか?確かに皆さん必死で競争をし、いろんな要素があるので、うまくいくのかどうかはなかなか判断が難しいと思います。でも本当にそんなにわからないものなのでしょうかね?バフェットさんの株の選び方と言うのはガッチガチのガッチガチ(つまり堀がある)のみです。会社は人々の努力で成り立ちますが、世の中には努力しない人もいますね。努力してもうまくいく保証はないからと言うような連中です。確かにその通りだし努力して失敗したら損なので何もしないという人なのでしょう。究極的には世の中には保障されている事(=確実な未来は)なんて存在しないのですが、世の中に保証を求めるアレです。さて投資する際にあなたは彼に投資する価値はあると思いますか?ところがど素人は誰がアレなのかわからないので投資するでしょうね。

 羽生先生をたとえばなしに持ってきましょう。投資のプロは羽生と素人の区別がついたとします。投資の素人は区別がつきません。こういう状態のとき投資のプロは素人に負けるでしょうか?良くてアイコですよね。

相関関係と因果関係

2013.05.02 (Thu)
「相関関係は因果関係を含意しない」は、科学や統計学で使われる語句で、2つの変数の相関が自動的に一方がもう一方の原因を意味するというわけではないことを強調したものである(もちろん、そのような関係がある場合を完全に否定するものではない)。全く逆の言葉である「相関関係は因果関係を証明する 」は誤謬であり、同時に発生した2つの事象に因果関係を主張するものである。このような誤謬は虚偽の原因の誤謬(英: false cause)と呼ばれる。前後即因果の誤謬は、2つの事象に順序関係があることが前提であり、「虚偽の原因の誤謬」の一種である。

広く研究された例として、ホルモン補充療法 (HRT) を行っている女性での冠状動脈性心臓病 (CHD) の発生率が低いことから、HRT が CHD 予防に効果があるという提案がなされたことがある。しかし対照試験を行ってみると、HRTによってCHDのリスクが若干ではあるが明らかに有意な増加を示した。データを再検討してみると、HRTを受けていた女性は上流階級の婦人が多く、ダイエットやエクササイズをよく行っていたことがわかった。つまり、HRTを受けることとCHD発症率が低いことは共通の原因の結果であり、両者に提案されたような原因と結果の関係は存在しない

数学的には "Correlation does not imply causation"(相関は因果を含意しない)は正しい。論理学では、"imply" は論理包含を意味する。しかし、"imply" という言葉は通常「示唆する」という意味でも使われる。相関と因果に何らかの関係があるというのは正しく、因果関係を証明する際には相関関係の存在が必要となる。
統計学者エドワード・タフティは、Microsoft PowerPoint によるプレゼンテーションの簡潔さの批評の中で、"Correlation is not causation"(相関は因果ではない)のような "is" の使用を不正確で不完全だと批判している。確かに相関関係は因果関係ではないが、それらが等価でないことを単に述べると、両者の関係についての情報が欠落する。タフティは、相関関係と因果関係について述べるには、最低でも以下のようにすべきではないかと示唆した。
「経験的に観察された共変動は、因果関係の必要条件だが十分条件ではない」
あるいは
「相関関係は因果関係と同じではない。相関関係は因果関係の単なる必要条件の1つである」

虚偽の原因の誤謬は次のように表現できる。
A の発生は B と相関している。
したがって、A が B の原因である。
この種の論理的誤謬では、2つかそれ以上の要因の間の相関関係を観測しただけで、それらの因果関係について早まった結論に飛びつく。一般に、1つの要因 (A) がもう1つの要因 (B) と相関していることが観測されたとき、それだけをもって A が B の原因だとする。しかし、実際には他に以下のような4つの可能性があるので、このような早とちりは論理的誤謬である。
B が A の原因かもしれない。
未知の第3の要因 C があり、実際には A も B も C が原因かもしれない。
その「関係」は単なる偶然か、事実上偶然といってもいいような複雑で迂遠なものかもしれない。すなわち、2つの事象は同時に発生したが、直接の関係はなく単に同時に起こっただけである。
B が A の原因であると同時に、A が B の原因である。ポジティブフィードバックシステムの動作はこれに当たる。
言い換えれば、AとBに相関があるという事実だけで、それらの間の因果関係を結論付けることはできない。たとえ相関関係が有意で効果量が大きかったり、分散の大部分が説明されているとしても、因果関係の存在を確定するにはさらなる調査・研究が必要である。

誤謬の例

因果関係の逆転
火災現場に出動する消防士が多いほど、火災の規模は大きい。
したがって、出動する消防士が多くなることが、火災が大きくなる原因だ。
消防士の人数と火災規模には強い相関関係があるが、上のような因果関係は存在しない。実際には火災が大きいから多数の消防士がそこに送り込まれているのであり、因果関係は逆である。

第3の要因が2つの共通原因
詳細は「擬似相関」を参照
以下の例では、交絡変数という未知の変数が相関する両者に影響している。例えば「例 3」の場合は「夏の暑さ」が真の原因である。
例 1
靴を履いたまま寝ると、起きたとき頭痛になることが多い。
したがって、靴を履いたまま寝ることが頭痛の原因である。
この場合、真の原因が「靴を履いたまま寝る」ことと「頭痛」の共通の原因であり、アルコールによる酩酊が相関の原因と考えられる。
例 2
明かりをつけたまま眠る若者は、その後近視になる可能性が高い。
これは、ペンシルベニア大学医療センターが比較的最近行った研究の例である。その研究は1999年5月13日発行のネイチャー誌で発表され、一般的なメディアでも大きく取り上げられた。しかし、後にオハイオ州立大学が行った研究では、赤ちゃんを明かりをつけたまま寝かせることと近視に関係があるという結果は得られなかった。それとは別に両親が近視の子供は近視になる確率が高いという結果が得られ、近視の両親が子供を明かりをつけた寝室で寝かせることが多いという傾向があった。つまり、この場合の交絡変数は、両親の近視と考えられる。
例 3
アイスクリームの売り上げが伸びると、水死者数も確実に増える。
したがって、アイスクリームが水死の原因だ。
アイスクリームがよく売れるのは夏であり、水死が増えるのも夏である。したがって、夏の暑さが両方の事象の共通する原因である。

偶然の一致
海賊の数が減るにつれて、同時に地球温暖化が大きな問題となってきた。
したがって、地球温暖化は海賊の減少が原因だ。
これはパロディ宗教である空飛ぶスパゲッティ・モンスター教が、相関と因果を混同する誤謬を風刺するのに用いた例である。
1950年代以降、大気のCO2レベルと犯罪レベルは同時に増大してきた。
したがって、大気中のCO2増加が犯罪増加の原因だ。
この例はもし因果関係があるとしたら非常に複雑で迂遠なものと考えられ、増加が相関しているというだけで因果関係を結論付けるのは尚早である。他のジョーク的な例として、Mierscheid Lawがある(ドイツ社会民主党の選挙での得票率と鉄の生産量の相関を示したもの。ただし、社会民主主義政党の得票と鉄の生産量の間には、「経済成長の推移が双方の原因」という擬似相関の関係はあるかもしれない)。

互いに一方がもう一方の原因
(気体は)圧力が高まるに連れて、温度が上昇する。
したがって、圧力によって温度が高くなっている。
理想気体の状態方程式 PV=nRT は圧力と温度の関係を示したもので、両者には相関関係がある。質量が変わらない場合、圧力を高くすると温度が上がり、温度を高くすると圧力が上がる。この場合、両者は独立しておらず、直接的な比例関係にある。

因果関係の判定

デイヴィッド・ヒュームは、因果関係は経験に基づくとし、同様に経験は未来が過去にならうという仮定に基づくとし、その仮定も経験に基づくとした。これは一種の循環論法である。彼は「因果関係は具体的推論に基づかない」と結論付け、観測できるのは相関関係だけだとした。
直観的に、因果関係には相関関係だけでなく反事実的依存関係 (counterfactual dependence) も必要と思われる。例えば、ある学生のテストの成績が悪く、その原因が勉強しなかったためだとしよう。これを証明するには、反事実 (counterfactual) として、同じ学生が同じ環境で同じテストを受けるが、勉強はしっかりしてきた場合を想定する。時間を巻戻すことができれば、これ(その学生に勉強させること)を実際に試すことができ、元のバージョンとやり直したバージョンを比較することで因果関係を観測できる。実際には時間を巻戻してやり直すことはできないので、因果関係は正確に知ることはできず、推測することしかできない。これを「因果的推論の根本問題 (Fundamental Problem of Causal Inference)」と呼ぶ。
科学的実験と統計的手法は、世界の反事実的状態を可能な限り近似することを主な目標の1つとしている。例えば、一貫してテストで同じ成績をとる一卵性双生児を対象として実験を行うとする。一方を6時間勉強させ、もう一方は遊園地で遊ばせる。その後のテストで成績が大きく異なれば、勉強(あるいは遊園地に行くこと)がテストの成績に因果的効果をもたらす強い証拠になる。このような実験を経れば、勉強とテストの成績の間には因果関係があるとほぼ確実に言える。
統計学的手法は、個人の等価性の代わりに集団の等価性を用いる。そのために、2つ以上の集団から無作為に標本を抽出する。完全なシステムではないが、被験者を無作為に抽出して、実際の治療を行う集団と偽薬を与える集団に置き、それら集団がなるべくあらゆる面で等質となるようにする。これによって、その治療法と偽薬の効果に大きな違いが現れれば、その治療法はその疾病を治療する因果的効果があると結論付けることができる。実験結果の有意性を定量化したものを統計用語でP値と呼ぶ。

wikiより

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株式投資

可謬主義

2013.04.24 (Wed)
可謬主義は、「知識についてのあらゆる主張は、原理的には誤りうる」という哲学上の学説。知識が絶対に確実であることは不可能であるとまで論じる可謬主義者たちもいる。

懐疑主義と違って、可謬主義は我々が知識を捨てる必要性ということを含意しない。我々は我々が知っていることを論理的に確実に正当化する根拠を持つ必要はない。むしろ可謬主義は、「経験的知識は、さらに観察をすることによって修正されうる」ということを理由に、我々が知識とみなしているものはどれも、誤りであることが判明する可能性があるということを承認することである。

可謬主義のいま一人の支持者はカール・ポパーで、彼は可謬主義的な諸前提に基づいて自分の知識論、つまり批判的合理主義 (critical rationalism) を打ち立てた。

パースは、真理の基準を研究者集団における研究者の意見の一致に求めたが、研究が究極的な一致に向けて収束するかについて主張の相違がある。ポパー、ハーバーマス、パトナムは収束を認めるが、リチャード・ローティ、トーマス・クーンは収束を認めない

(数学的知識や論理的知識のような)公理的に真であることを例外とする可謬主義者たちもいる。ほかの可謬主義者たちはそれら公理的に真であることについても同様に可謬主義者であるが、その理由は、たとえそれらの公理的な学説がある意味で不可謬なのだとしても、我々はそれらの学説と連動するときに誤ることができるということである。批判的合理主義者ハンス・アルバート (Hans Albert) によると、論理学や数学においてさえ、どの真理であろうと確実に証明することは不可能である。この議論はミュンヒハウゼンのトリレンマと呼ばれている。

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帰納法

2013.04.18 (Thu)
帰納とは、個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則・法則を見出そうとする推論方法のこと。対義語は演繹。

一般的にいって帰納は、あくまでも確率・確度といった蓋然性の導出に留まる。例えば、「ネコaはネズミを追いかける」「ネコbはネズミを追いかける」「ネコcはネズミを追いかける」という事例が幾つかあるので、「全てのネコはネズミを追いかける」と結論を下すとしよう。ここでは、自分が見たネコだけから「全てのネコ」という全称命題に範囲を飛躍させている。しかし、この先新たにネズミを追いかけない猫が発見される可能性は常にある。したがって、「全てのネコはネズミを追いかける」と定式化することには疑問が残る。

「人であるソクラテスは死んだ。人であるプラトンは死んだ。人であるアリストテレスは死んだ。したがって人は全て死ぬ」。つまり、帰納は一般化に基づく。

一般的にいえば、帰納とは何かしらの知的判断能力を有する生物が行動学習をする際の根本的な原理を定式化したものである。フランシス・ベーコンの提出したこの帰納という概念をより人間学的に咀嚼したものが、ジョン・ロックの経験論である。

データから理論を導き出す試み、すなわち帰納的推理はベーコンらによって始められ、J.S.ミル『論理学体系』においてある程度体系化され、その後近代論理学や統計学と結びついて研究されている。

帰納とは、個別・特殊的事実の多さから結論がどのくらい確からしいものかを導くための推理といえる。これは確証性の原理とも呼ばれ、次のように定式化されている。「法則に関連する観察が増えれば増えるほど、その法則の確からしさは増大する」

帰納法の欠点

早すぎる一般化である。帰納法が間違う有名な例として、"「ビールには水が入っている」、「ウィスキーにも水が入っている」、「ブランデーにも水が入っている」、よって「水を飲むと酔っ払う」" というものがある。

ある七面鳥が毎日9時に餌を与えられていた。それは、あたたかな日にも寒い日にも雨の日にも晴れの日にも9時であることが観察された。そこでこの七面鳥はついにそれを一般化し、餌は9時になると出てくるという法則を確立した。
そして、クリスマスの前日、9時が近くなった時、七面鳥は餌が出てくると思い喜んだが、餌を与えられることはなく、かわりに首を切られてしまった。

1.その事実の成立を可能とする理論的文脈や社会的背景なしに、事実は存在し得ない。「思い込みや先入観のない事実」は存在しない、絶対的客観性はあり得ない、ということである。帰納の前提となる事実は、完全には信頼できないものである。

2.どれだけデータ(事実)を集めてもその数は有限であり、無限の事柄を言い当てる全称命題は導出できない。帰納には、有限から無限への無理な飛躍がある。

3.「自然法則は簡潔な構造を持つ」ということを前提にしなければ、帰納は集められたデータから一意的な決定ができない。複数の法則に帰結するようであれば帰納は意味をなさないが、実際は多様性につきまとわれる。そのために、簡潔な法則を選択するという前提があるのだが、その原理自体を帰納では証明できない。

wikiより

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